夜の果てへの旅

僕の夜の果てへの旅の記し

無印良品と資本主義社会

僕たちの生きる世界は、ありとあらゆる記号で成り立っている。信号が赤になれば人々は足を止め、その間に店のショーウィンドウに映るブランド品を眺めたりする。この場合、信号はもちろんのこと、ブランドも立派な記号なのだ。

例えば僕たちは、ヴィトンの鞄が本革でできているのか、イノシシの毛皮でできているのか、そのような本質には一切目を向けない。ただ僕たちができることといえば、「ヴィトン」という記号を消費することだけだ。

このように記号、つまり「印」とは本質的にではなく、社会的に構築された価値なのだ。

しかし、いまや社会はこのような記号、つまり印が溢れかえる、記号飽和社会になっている。資本主義が加速度を増すたびに、僕たちは記号を手を替え品を替えながら、生産、売買し、捨てる。すると奇妙なことが起き始める。

透明な記号を売りにする商品が姿を現し始めるのだ。透明な記号、まるで印を失ったかのような見せかけの印。

無印良品ノンアルコールビールなどは、「無」を提供するという、歴史的に異質な記号商品だ。これはまさに、資本主義の果てに人類が到達した、記号飽和社会の特徴をうまく表している。つまり、僕たちはあまりにも多くの記号を消費しているが故に、「無」という一見透明な印に惹きつけられるのだ。

それは、存在しない印を消費する社会とも言える。しかし、果たしてこれらの商品は本当に透明な無印なのだろうか?