夜の果てへの旅

僕の夜の果てへの旅の記し

Netflixオリジナル映画『ブラックミラー バンダースナッチ』を分析してみる

まず映画の基本情報から始めようと思ったが、それはきっと誰か他の人がやってくれるに違いない。なので僕は、この映画のバックグラウンドなどは抜きにして、哲学や他の作品との間テクスト的な分析を試みたい。

 

メタフィクション

作品内の人物が作品を飛び出し、直接僕たちの現実世界に語りかける。これは古くからある手法で、シェイクスピアの劇でも多く使われていたメタフィクションというトリックだ。それによって生まれる効用は次の通り。

 

       「私たち読者も作品の一部である」

 

今作品では、主人公が途中で操られていることを意識し、私たち読者に選択肢を迫るシーンがある。作品内に制限されているはずの人物が画面を通り越し、私たちの現実世界を領海侵犯してくる。このメタフィクションによって私たち読者はその立場を揺さぶられる。私たちはもう、安心してベッドでだらだらと見ている場合ではなくなるのだ。「もしかしたらこれは他人事じゃないのかもしれない」。この映画は視聴者にそう思わせることに成功している。

 

マルティプルチョイス

この映画を見たとき、最初に頭に浮かんだものが『ライフイズストレンジ』というビデオゲームだ。時間を操ることできる主人公は、様々な場面んで多くの難しい選択を迫られる(ex友達を見捨てて自分だけ助かるのかなど)。その選択をするのは常に私たち消費者であり、作品に対して能動的な参加が求められる。

とはいうものの、そもそも私たちの人生も選択の繰り返しだ。

 

  「何かを選んだということは、何かを選ばなかったということ」

 

これは僕なりの人生哲学だ。僕たちは日々、あまりにも多くの捨てられた選択肢の上に立っている。

 

マトリックストゥルーマン・ショー、そしてプラトン

他にもこの映画を見て想起するものはたくさんある。まずはマトリックス

主人公が天才ゲームプログラマーと彼の家のベランダで話すシーンなどは、明らかにマトリックスのネオとモーフィアスの会話を思い出す。

そしてトゥルーマン・ショージムキャリー主演のあの映画は、まさにメタフィクションの典型だろう。物語の外にある物語を見ている僕たち。しかし、その僕たちすらも物語の一部なのかもしれない。この不安がトリックとなって、僕たちは画面に食いついてしまう。

最後にプラトン(最後にプラトンかよw)。ここは簡単に終わらせたい。この映画作成に携わった人が意識していたか否かは分からないが、この映画のテーマは明らかにプラトンイデア論そのものである(他にもベンヤミンとかあるかも)。イデア論とはようは、この世界とは別の高次元な世界が私たちを操っているのかもしれない、という考え方だ。そして私たちは思うようにコントロールされ、偽物の世界を見せられている、というSFちっくな思考法。イデア論はこの映画だけではなく、上の2つの映画にも共通して見られる概念だと思う。

 

最後に

この映画は映画館では見られない。つまり他の東宝やハリウッドでは作られない映画なのだ。Netflixというプラットフォームは完全に映画の概念を刷新してしまった。企画作成から配給までを自社で完結させ、それを僕たちはテレビ一台で見ることができる。しかもこの映画の新しかったところは、視聴者たちの積極的な作品参加である。もはや僕たちは、眠りこけながら画面を見つめる視聴者ではなく、作品の一部を成す能動的な参加者なのだ。おそらく今後、そのような新しい視聴者の時代がやってくる。