夜の果てへの旅

僕の夜の果てへの旅の記し

私たちはなぜ分かり合えないのか?(哲学的に答える)#使える会話術

言葉を話すとき何を共有しているのか?

私たちは普段コミュニケーションをするとき、言葉という透明な媒体を使っています。でも言葉を共有しているわけではないですよね?どういう意味か。つまり、私たちは言葉を使って何かを共有しているということです。

なるほど、意味がわからない。

ということで、言語哲学者のウィトゲンシュタインを参照してみたいと思います。

言葉を使って写真を共有している

ウィトゲンシュタインの答えはこれです。私たちは普段会話をするとき、実は自分の頭の中に浮かんでいる写真を元に話を進めています。猫のことだったら自分の飼っているタマのことを思いかべたり、女のことだったら自分を裏切った過去の浮気女だったり、といった具合にです。私たち一人ひとりの脳には、言葉に対応している写真が存在しています。しかし問題なのが、どの写真も全く同じものはなく、それぞれ違った姿かたちをしているということです。にもかかわらず、私たちは言葉という透明な存在を使って、自分が過去に撮った写真(自分の頭に浮かんでいるイメージ)を他人と無理やり共有しようとします。はっきり言って、他人とのコミュニケーションの失敗はほとんどこれが原因です。相手の持つ写真が、自分の持っている写真と同じなわけ無いですもんね。

 

コミュ力のある人とは?

ウィトゲンシュタインの考えに照らし合わせて考えると、コミュ力の高い人とは多くの写真を持っている人だと思います。私たちは友達と話すときと先生と話すとき、親と話すとき、それぞれ違った言語を話しています。その時その時にあった写真を頭の中で入れ替え、どれが目の前の人の持つ写真により近いかを考えます。少し難しい言葉で言うと、コードスイッチを常に行っているということです。このコードスイッチのことをさらにウィトゲンシュタインの言葉で言語ゲームって言ったりするんですが、その話はおいおいしていこうと思います。

つまり、私の思うコミュ力の高い人とは、自分の言葉の手札、つまり言葉の写真を多く持ち、なおかつ、相手の手札を読み解く能力のある人です。

 

どうすれば写真を増やせるか?

私のブログの読者なら当たり前のような結論ですが、本を読め、というのが答えです。世の中には絶対に馬が合わない人とか、変人とかいますよね?しかし、文学作品とかにはもっとひどい人物(金のために老婆を殺したり、妻が発狂するまで不倫し続けたりする人)とかもいます。普通に惰性で人生を繰り返しているだけでは、なかなか頭の中の写真を増やすことはできません。ということはつまり、コミュニケーションが失敗する確率が高いということになります。しかし、文学という少しだけ敷居の高いものに触れるだけで、私たちは比較的簡単に他人と分かり合えることができます。