夜の果てへの旅

僕の夜の果てへの旅の記し

「死にたいなら1人で死ねよ」という言説について

僕たちは誰1人として、誰かの命を奪うことはできないし、その存在を否定することはできない。それは絶対あってはならないことだ。

 

テロや殺人事件が起こった場合、事件の首謀者を裁くのは僕たち市民ではなく、すべては法の権限に基づいた司法判断に依らねばならない。

ところが。

 

「死にたいなら1人で死ねばいいのに」

 

あるキャスターがテレビでこう言っていた。

彼女には悪気はなかっただろうし、被害者や遺族を思い、心からそう述べたのだろう。

 

しかし彼女の言説は、あるパラドックスを抱えてしまっている。

 

彼女は犯罪者と同じロジックにはまってしまっているのだ。つまり、人の命は他人から否定され得るものだという思考に、彼女を含め、ネットの言説は気づかないうちに浸ってしまっている。

 

(つづく、、かも)

 

 

無印良品と資本主義社会

僕たちの生きる世界は、ありとあらゆる記号で成り立っている。信号が赤になれば人々は足を止め、その間に店のショーウィンドウに映るブランド品を眺めたりする。この場合、信号はもちろんのこと、ブランドも立派な記号なのだ。

例えば僕たちは、ヴィトンの鞄が本革でできているのか、イノシシの毛皮でできているのか、そのような本質には一切目を向けない。ただ僕たちができることといえば、「ヴィトン」という記号を消費することだけだ。

このように記号、つまり「印」とは本質的にではなく、社会的に構築された価値なのだ。

しかし、いまや社会はこのような記号、つまり印が溢れかえる、記号飽和社会になっている。資本主義が加速度を増すたびに、僕たちは記号を手を替え品を替えながら、生産、売買し、捨てる。すると奇妙なことが起き始める。

透明な記号を売りにする商品が姿を現し始めるのだ。透明な記号、まるで印を失ったかのような見せかけの印。

無印良品ノンアルコールビールなどは、「無」を提供するという、歴史的に異質な記号商品だ。これはまさに、資本主義の果てに人類が到達した、記号飽和社会の特徴をうまく表している。つまり、僕たちはあまりにも多くの記号を消費しているが故に、「無」という一見透明な印に惹きつけられるのだ。

それは、存在しない印を消費する社会とも言える。しかし、果たしてこれらの商品は本当に透明な無印なのだろうか?

 

インターネットのくだらなさ

僕は今ここに記事を書いている。

そうした身が言うのもなんだが、僕は基本的にインターネットが大嫌いだ。

なぜか?

インターネットは嘘だらけだからだ。

ここで自由に記事を書いているが、僕は人々(僕も含めて)が自由にあれこれ書ける環境をディストピアと呼んでいる。

インターネットをまるで自由なユートピアとして持ち上げる風潮が長く続いているが、実はこの見えないプラットフォームは、僕たちが思っている以上に息のしずらい場所なのではないか?

こないだアメリカのポストモダニズム作家、ジョンアーヴィングのWikipediaのページを見ることがあった。

そこに書かれていた文章をみて僕は固まってしまった。

なんと、モダニズム作家のジェイムズジョイスが、ポストモダニズムの作家として取り上げられていたのだ。

こんな違い、少し文学をかじったことのある人ならすぐに気づく。

しかし未だに、大学生たちはWikipediaに絶大な信頼を寄せて課題レポートを書いている。

僕たちが生きるインターネット空間は、嘘さえ本当になるディストピア、いや、ユートピア空間なのだ。

Netflixオリジナル映画『ブラックミラー バンダースナッチ』を分析してみる

まず映画の基本情報から始めようと思ったが、それはきっと誰か他の人がやってくれるに違いない。なので僕は、この映画のバックグラウンドなどは抜きにして、哲学や他の作品との間テクスト的な分析を試みたい。

 

メタフィクション

作品内の人物が作品を飛び出し、直接僕たちの現実世界に語りかける。これは古くからある手法で、シェイクスピアの劇でも多く使われていたメタフィクションというトリックだ。それによって生まれる効用は次の通り。

 

       「私たち読者も作品の一部である」

 

今作品では、主人公が途中で操られていることを意識し、私たち読者に選択肢を迫るシーンがある。作品内に制限されているはずの人物が画面を通り越し、私たちの現実世界を領海侵犯してくる。このメタフィクションによって私たち読者はその立場を揺さぶられる。私たちはもう、安心してベッドでだらだらと見ている場合ではなくなるのだ。「もしかしたらこれは他人事じゃないのかもしれない」。この映画は視聴者にそう思わせることに成功している。

 

マルティプルチョイス

この映画を見たとき、最初に頭に浮かんだものが『ライフイズストレンジ』というビデオゲームだ。時間を操ることできる主人公は、様々な場面んで多くの難しい選択を迫られる(ex友達を見捨てて自分だけ助かるのかなど)。その選択をするのは常に私たち消費者であり、作品に対して能動的な参加が求められる。

とはいうものの、そもそも私たちの人生も選択の繰り返しだ。

 

  「何かを選んだということは、何かを選ばなかったということ」

 

これは僕なりの人生哲学だ。僕たちは日々、あまりにも多くの捨てられた選択肢の上に立っている。

 

マトリックストゥルーマン・ショー、そしてプラトン

他にもこの映画を見て想起するものはたくさんある。まずはマトリックス

主人公が天才ゲームプログラマーと彼の家のベランダで話すシーンなどは、明らかにマトリックスのネオとモーフィアスの会話を思い出す。

そしてトゥルーマン・ショージムキャリー主演のあの映画は、まさにメタフィクションの典型だろう。物語の外にある物語を見ている僕たち。しかし、その僕たちすらも物語の一部なのかもしれない。この不安がトリックとなって、僕たちは画面に食いついてしまう。

最後にプラトン(最後にプラトンかよw)。ここは簡単に終わらせたい。この映画作成に携わった人が意識していたか否かは分からないが、この映画のテーマは明らかにプラトンイデア論そのものである(他にもベンヤミンとかあるかも)。イデア論とはようは、この世界とは別の高次元な世界が私たちを操っているのかもしれない、という考え方だ。そして私たちは思うようにコントロールされ、偽物の世界を見せられている、というSFちっくな思考法。イデア論はこの映画だけではなく、上の2つの映画にも共通して見られる概念だと思う。

 

最後に

この映画は映画館では見られない。つまり他の東宝やハリウッドでは作られない映画なのだ。Netflixというプラットフォームは完全に映画の概念を刷新してしまった。企画作成から配給までを自社で完結させ、それを僕たちはテレビ一台で見ることができる。しかもこの映画の新しかったところは、視聴者たちの積極的な作品参加である。もはや僕たちは、眠りこけながら画面を見つめる視聴者ではなく、作品の一部を成す能動的な参加者なのだ。おそらく今後、そのような新しい視聴者の時代がやってくる。

 

私たちはなぜ分かり合えないのか?(哲学的に答える)#使える会話術

言葉を話すとき何を共有しているのか?

私たちは普段コミュニケーションをするとき、言葉という透明な媒体を使っています。でも言葉を共有しているわけではないですよね?どういう意味か。つまり、私たちは言葉を使って何かを共有しているということです。

なるほど、意味がわからない。

ということで、言語哲学者のウィトゲンシュタインを参照してみたいと思います。

言葉を使って写真を共有している

ウィトゲンシュタインの答えはこれです。私たちは普段会話をするとき、実は自分の頭の中に浮かんでいる写真を元に話を進めています。猫のことだったら自分の飼っているタマのことを思いかべたり、女のことだったら自分を裏切った過去の浮気女だったり、といった具合にです。私たち一人ひとりの脳には、言葉に対応している写真が存在しています。しかし問題なのが、どの写真も全く同じものはなく、それぞれ違った姿かたちをしているということです。にもかかわらず、私たちは言葉という透明な存在を使って、自分が過去に撮った写真(自分の頭に浮かんでいるイメージ)を他人と無理やり共有しようとします。はっきり言って、他人とのコミュニケーションの失敗はほとんどこれが原因です。相手の持つ写真が、自分の持っている写真と同じなわけ無いですもんね。

 

コミュ力のある人とは?

ウィトゲンシュタインの考えに照らし合わせて考えると、コミュ力の高い人とは多くの写真を持っている人だと思います。私たちは友達と話すときと先生と話すとき、親と話すとき、それぞれ違った言語を話しています。その時その時にあった写真を頭の中で入れ替え、どれが目の前の人の持つ写真により近いかを考えます。少し難しい言葉で言うと、コードスイッチを常に行っているということです。このコードスイッチのことをさらにウィトゲンシュタインの言葉で言語ゲームって言ったりするんですが、その話はおいおいしていこうと思います。

つまり、私の思うコミュ力の高い人とは、自分の言葉の手札、つまり言葉の写真を多く持ち、なおかつ、相手の手札を読み解く能力のある人です。

 

どうすれば写真を増やせるか?

私のブログの読者なら当たり前のような結論ですが、本を読め、というのが答えです。世の中には絶対に馬が合わない人とか、変人とかいますよね?しかし、文学作品とかにはもっとひどい人物(金のために老婆を殺したり、妻が発狂するまで不倫し続けたりする人)とかもいます。普通に惰性で人生を繰り返しているだけでは、なかなか頭の中の写真を増やすことはできません。ということはつまり、コミュニケーションが失敗する確率が高いということになります。しかし、文学という少しだけ敷居の高いものに触れるだけで、私たちは比較的簡単に他人と分かり合えることができます。

私たちがやりたいこと

やりたいことがない

 

当たり前。水と食料と安全な寝床が確保できる日本で、やりたいことを探すのは実は相当苦労する。最低限生きていくにはバイトでもいいし、田舎なら家賃だってそんなにかからない。しかし、私たちは当たり前のように社会からいつもこう呼びかけられている。「やりたいことをやりなさい」。

 

できることはある

 

やりたいことではなく、できることをやろう。これは裏を返せば、やりたくてもできないことは、無理してやろうとする必要はないということだ。今の日本人には、諦める力が必要だ。一軒家、車、大型テレビ。これらを諦めても、私たちは立派に行きていくことができる。周りを見渡せば、自分にできることならたくさんあるはずだ。

 

実感ではなく直感

 

人のためになる仕事がしたい。それはそれで立派な考え方だ。つまり自分が社会の役に立っている実感が欲しいわけだ。だけど私は別にそれもあまり重要でないように思う。なんとなく「これで人の役に立ってるのかも」というくらいの直感が、人生を本当に楽にする。

 

つまり

 

やりたいことがないことを恥じる必要はない。まずは自分ができることを探して、後から、なんとなく人の役に立っていると言う直感を持てばいい。やりたいことがある、という強い意志を持っている人は実は本当にごく少数で、それに圧迫される必要はない。

自分探しの旅、してきます

自己分析と自分探し

毎年肌寒くなってくると、就活を控える学生たちが必死に自己分析に努めているのを耳にする。自己分析とは、今まさに社会へ足を踏み入れるために、誰しもが行うイニシエーションである。自分はどういった人間で、どのような職業があっているのか。自分の原体験は何で、それがどのように現在の自分を形成したのか。彼らは様々な方法で自分を自分なりに分析するのである。しかしはっきり言おう、自己分析など言葉の幻想にすぎない。少し前まで流行っていた「自分探し」という、世界を旅するためのくだらない標語。自己分析はそれと同じ匂いがする。本当の自分というものがインドに行って見つかるのだろうか?企業に内定をもらうための言葉の綾で、本当の自分など理解できるのだろうか?もちろん私は自己分析という風潮を批判しているのでは無い。ただ、その自己分析をする本当の意味を今一度考えてみてほしい。機械的に組み立てたロジックによる分析が、本当の自分の姿を説明できることはまずありえない。

 

いかにフリをできるか

そもそも本当の自分の姿など存在しない。ではどうすべきなのか。自己分析に対する態度は、分析をしつつも、その結果として現れたものは本当の自分などでは無いと意識する、というくらいが良いのではないかと思う。つまり、自己分析によって得るべき態度は、「私はこういう人間だったんだ」というものではなく、「私はこういう人間であるフリをしとこう」くらいがちょうどいいのである。そもそも私がなぜこのように憂うのかと言うと、人々がしきりに言うある言葉が嫌いであるからだ。それは「私って〜だからさあ」というものだ。この悪しき定型文は、無慈悲にも私たちの人格をきつく縛ってしまう。この一見自分を理解しているかのような、開き直った言い回しほど癪に触るものはない。だからなんなんだ?と言いたくなる。そのような態度を取る人は、あまりにも自分の言葉に正直すぎて、その言葉によってできた幻想の自分というものから抜け出せない。その言葉のレトリックに自分を浸しすぎ、他の選択肢を考えられなくなってしまっているからだ。

 

自己分析はしたほうがいい。ただし

就活生には徹底的に自己分析をやってほしい。しかし、それで得られるものは本当の自分などではない。世の中を生き延びるには、特定の人格に縛られるのではなく、あらゆる選択肢を行き来しながら、フリをするくらいが良いのだ。