夜の果てへの旅

僕の夜の果てへの旅の記し

自分探しの旅、してきます

自己分析と自分探し

毎年肌寒くなってくると、就活を控える学生たちが必死に自己分析に努めているのを耳にする。自己分析とは、今まさに社会へ足を踏み入れるために、誰しもが行うイニシエーションである。自分はどういった人間で、どのような職業があっているのか。自分の原体験は何で、それがどのように現在の自分を形成したのか。彼らは様々な方法で自分を自分なりに分析するのである。しかしはっきり言おう、自己分析など言葉の幻想にすぎない。少し前まで流行っていた「自分探し」という、世界を旅するためのくだらない標語。自己分析はそれと同じ匂いがする。本当の自分というものがインドに行って見つかるのだろうか?企業に内定をもらうための言葉の綾で、本当の自分など理解できるのだろうか?もちろん私は自己分析という風潮を批判しているのでは無い。ただ、その自己分析をする本当の意味を今一度考えてみてほしい。機械的に組み立てたロジックによる分析が、本当の自分の姿を説明できることはまずありえない。

 

いかにフリをできるか

そもそも本当の自分の姿など存在しない。ではどうすべきなのか。自己分析に対する態度は、分析をしつつも、その結果として現れたものは本当の自分などでは無いと意識する、というくらいが良いのではないかと思う。つまり、自己分析によって得るべき態度は、「私はこういう人間だったんだ」というものではなく、「私はこういう人間であるフリをしとこう」くらいがちょうどいいのである。そもそも私がなぜこのように憂うのかと言うと、人々がしきりに言うある言葉が嫌いであるからだ。それは「私って〜だからさあ」というものだ。この悪しき定型文は、無慈悲にも私たちの人格をきつく縛ってしまう。この一見自分を理解しているかのような、開き直った言い回しほど癪に触るものはない。だからなんなんだ?と言いたくなる。そのような態度を取る人は、あまりにも自分の言葉に正直すぎて、その言葉によってできた幻想の自分というものから抜け出せない。その言葉のレトリックに自分を浸しすぎ、他の選択肢を考えられなくなってしまっているからだ。

 

自己分析はしたほうがいい。ただし

就活生には徹底的に自己分析をやってほしい。しかし、それで得られるものは本当の自分などではない。世の中を生き延びるには、特定の人格に縛られるのではなく、あらゆる選択肢を行き来しながら、フリをするくらいが良いのだ。